主な仕事
南部陽一郎博士の業績はとてつもなく大きい。画期的なその後の物理の進展を決定づける重要な仕事がいくつもある。南部博士が新しい理論、考え方を発表したとき、多くの研究者は理解できなかった。だが10年経ってみると、南部は正しいことが判明する。だからこそ、南部は物理の予言者であるとよく言われる。
面白い逸話がある。南部が65歳を迎えたときシカゴ大学で記念シンポジウムがあり、夜、晩餐会が開かれた。筆者も参加していたのだが、晩餐会で多くの人が印象深いエピソードを紹介して、南部の偉大さを堪能しきっていたとき、司会者がもう十分だろうが、まだしゃべりたい人はいるかと尋ねた。するとBuruno Zumino(ブルーノ ズミノ)が手を挙げた。(Zuminoは素粒子物理学における超対称性の創始者の一人として有名。)Zuminoは、自分は物理の研究を始めていつも南部の論文の凄さに感服してきた。自分も何かいい仕事をしたい、他の人に先駆けて重要な仕事をするにはどうしたらいいか。アイディアが閃いた。多くの研究者は南部の論文を理解するのに10年かかる。とすれば、南部の最新の論文を必死で勉強して、それを元に自分も論文を書けば他の人より早くいい仕事ができる。自分はかなりの時間を捧げて実践した。だがこの戦略はうまくいかなかった。何故なら、結局のところ、自分が南部のその論文を理解するのに10年かかったから、と。
南部は2009年5月13日に大阪大学理学研究科・理学部で行なったノーベル物理学賞受賞記念講演「私が歩んできた道」の中で、物理というものは楽しいものであることを忘れてはいけない、自分の個性を大切にしなければいけない、と力説した。自分は数学的なアナロジーを使って新しいアイディアを得ることが多い、プリンストンと違ってシカゴではゆっくりと研究に励むことができた、とも語った。ぜひ、この講演ビデオを視聴してほしい。
大阪大学理学研究科・理学部 2009年5月13日
湯川中間子とその仲間、ハドロンの世界の保存則
1950年代になって、さまざまな新粒子が発見された。加速器や宇宙線、核反応実験で素粒子の性質が調べられた。その中で湯川中間子(パイ中間子)は他の粒子と比べて非常に軽く、仲間の中間子も含めて陽子や中性子との相互作用に特異性があることに人々は頭を悩ませていた。素粒子の相互作用を規則づける一つの方法は保存則を見つけることである。電荷が保存するというのはその1例である。(これは電磁対称性があるとも表現される。)1960年新春、南部は湯川中間子(パイ中間子)はほぼ質量ゼロの粒子で、カイラル荷と言われるものがほぼ保存する、カイラル対称性がある、と主張した。この描像は大激論を引き起こし、多くの人々が納得するようになったのは1968年ごろである。
この考え方、見方は素粒子における「対称性の自発的破れ」につながっていく。
BCS超伝導理論の再定式、南部表示
1957年 Bardeen, Cooper, Schrieffer (BCS) は超伝導現象を説明する理論(BCS理論と呼ばれる)を発表した。南部は深い関心を持っていた。実験データを次々と説明するBCS理論、その凄さに感銘するするとともに、南部にはすぐに理解できないことがあった。BCS理論では電子数が保存されていないのである。これはどういうことか。電磁相互作用を基礎づけるゲージ不変性も失われてしまわないか。
1959年、南部はBCS理論の再定式化を試みる。電子を生成する場と消滅する場を絡み合わせる記述を使って、BCS理論の結果が再現できることを示す。(この記述方法は南部表示と呼ばれる。)相互作用によって励起モードが生成場と消滅場の重ね合わせとなり、その結果、超伝導現象が引き起こされることを明快に示した。さらに元々あったゲージ不変性は、電子の集団振動(プラズモン)として現れることも示した。これは、後年ヒッグス機構と呼ばれるものをすでに体現していた。
質量の起源、対称性の自発的破れ
BCS超伝導理論を再定式して導いた南部表示の方程式、この方程式をよくよく見ると素粒子を記述するディラック方程式と同じ構造を持っている。閃くように南部のアナロジーは超伝導と素粒子を結びつける。超伝導でエネルギーギャップと呼ばれるものは、素粒子の質量(重さ)に対応している。超伝導のギャップがゼロの状態は素粒子の質量がゼロであること、つまりカイラル対称性があることを意味し、湯川中間子の多くの性質を説明できる。しかし陽子や中性子は大きな質量を持つ。
南部は大胆に結論する。素粒子の世界ではもともとカイラル対称性がある。超伝導物質で電子数対称性が破れ超伝導状態になるのと同じように、素粒子のカイラル対称性は自発的に破れ、その結果、陽子や中性子の質量が生まれるのだ。同時に、湯川中間子がほぼゼロ質量に近い形で現れる。1960年と1961年、南部はヨナラジニオ (Jona-Lasinio) とともに「超伝導とのアナロジーに基づいた素粒子の力学的なモデル」(Dynamical model of elementary particles based on an analogy with superconductivity. I and II) を発表して、実際に「カイラル対称性の自発的破れ」が力学的に引き起こされることを示した。これら一連の論文が2008年ノーベル物理学賞として輝く。
我々の体は陽子、中性子、電子で成り立っており、我々の体の重さのほとんどは陽子と中性子の質量からくる。宇宙にある物質の質量も、未だ正体がわかっていない暗黒物質を除いて陽子と中性子の質量でほぼ説明される。現在では、我々の重さの98%は南部のメカニズムで説明されることがわかっている。残りの2%は2012年に発見されたヒッグス粒子による。
カラーの自由度、クォークの3重項モデル
陽子は u クォーク2個と d クォーク1個、中性子は u クォーク1個と d クォーク2個から成り立つ。陽子、中性子の仲間であるオメガマイナス粒子は u クォーク3個から成り立つ束縛粒子である。量子力学では同じ2個のフェルミオンが1つの状態を占有することはできない。オメガマイナス粒子の3個の u クォークのうち1番エネルギーが低い状態を占めるのは1個の u クォークだけで、残りの2個の u クォークはエネルギーの高い状態を占めねばならない。するとオメガマイナス粒子の質量が大きくなって、実験結果と矛盾する。この問題を解決すべく、1965年南部はHanとともにクォークの3重項モデルを提唱した。クォークは新しい3種のカラーの自由度を持っている。Han-南部モデルではクォークの電荷は整数であるが、ゲルマンのクォークモデルでは、u クォークは +2/3 , d クォークは -1/3 の分数電荷を持っている。どちらが正しいかの判定は1975年ごろの電子陽電子衝突実験で下され、クォークは分数電荷を持っていることが確立された。
素粒子の弦(ひも)理論
1960年代半ばになると加速器実験で高エネルギーの陽子衝突が詳しく調べられ、散乱断面積に奇妙な規則性があることが認識されるようになった。数学的には散乱振幅がガンマ関数の組み合わせで表されるのだが、それがどうしてなのか、謎に包まれていた。このときの南部の慧眼には誰もが心を震わされる。南部は陽子などの素粒子がヴァイオリンの弦のように振動し、2倍音、3倍音と高音(高エネルギー)の励起状態があると考えれば、散乱振幅のガンマ関数の組み合わせが出てくることを示したのである。後年、南部先生が筆者にどのようにこれを見つけたかを説明してくださったのだが、ガンマ関数の積分表示から出発し、表示をどんどん変形していく、すると被積分関数の一部に現れた指数関数の肩を指さして、これは弦の振動そっくりじゃないか、とおっしゃる。筆者は呆気に取られるばかりだった。
南部の怒涛の探究はさらに続く。もし素粒子が弦(ひも)であるとすれば、弦としての基礎理論があるはずだ。ここでアインシュタインの相対性原理が支配する。相対論的に不変な弦の作用(Action)を書き下し、それを元に量子論を構成する。こうして1970年夏に出来上がったのが、現在、南部-後藤作用(Nambu-Goto action)と呼ばれ、弦理論探究のバイブル、出発点となっている。

この Nambu action の発表には思いがけない苦労話がある。この時の状況を南部はエッセイ「 My Adventures on the Road (1998)」の中でつぶさに語っている。1970年8月に開催されたコペンハーゲンでのシンポジウムに南部は講師として招かれ、南部は講義ノートとして「Duality and Hadrodynamics」を準備した。まず車でドライブして家族をカリフォルニア州サクラメントの友人宅に送り、南部はその後サンフランシスコからヨーロッパに飛び立つ予定であった。シカゴからサクラメントまでは高速道路を駆け抜けて4日ほどかかる。灼熱の道中半ば、ユタ州 Salt Lake City を過ぎ、ネバダ州までもう少しのところで、後方から小さな車が南部の車をうねるように追い越した。かっときた南部は思い切りアクセルを踏み込んで対抗しようとした。ところが突然アクセルは無反応、エンジンはオーバーヒート、冷却ホースははずれ、ドライブできなくなってしまった。エンジンの損耗もあり、車の修理に田舎町で3日間足止めをくらうことになる。その結果、ヨーロッパへの飛行機は完全にミスし、コペンハーゲンには行けなくなった。講義録「Duality and Hadrodynamics」は幻の論文となってしまったのだ。それでもこれは unpublished and undelivered notes として世界中に知られるようになり、人々は原典の講義録を読むことも見ることもなく Nambu action を引用し、教科書に掲げることになる。
その後、弦理論は超弦理論(スーパーストリング理論)に発展し、重力をも含む素粒子の究極基礎理論候補として若い研究者の心をとらえ続けている。
文: 細谷 裕(大阪大学名誉教授)